藤津亮太さん「“ワタシ”と“アナタ”と“ONI”」

『ONI ~ 神々山のおなり』に寄せて 

PLAY! MUSEUMで開催中のトンコハウス・堤大介の「ONI展」(2023年1月21日(土)ー4月2日(日))。Netflixオリジナル作品として配信中のトンコハウス・堤大介監督初の長編アニメーション『ONI ~ 神々山のおなり』に寄せて、日本のアニメーション評論家、フリーライターの藤津亮太さんからエッセイ「“ワタシ”と“アナタ”と“ONI”」が届きました。

『ONI ~ 神々山のおなり』は「“ワタシ”と“アナタ”」についての物語だ。「本当の鬼を、誰も知らない。」というキャッチコピーもその延長線上にある。

 そもそもどうすれば、私たちは自分が何者かを知ることができるのか。実は「私は何者か」という問いは、「私は何故“アナタ”ではないのか」という問いと深く結びついている。自分ではない存在を「アナタ」と具体的に経由する認識することなしには、人は自分の輪郭を確定すことができない。自分の中へとどんどん潜っていっても、“ワタシ”の輪郭は曖昧になるばかりだ。“アナタ”と出会い、時にぶつかり、時に傷つくことを経て、私は“ワタシ”という輪郭をまとうことができる。そうすれば“ワタシ”は“ワタシ”だけでなく、“アナタ”も受け入れられるようになる。

 本作はおなりが「クシの力」をなかなか使えるようにならないところから始まる。この悩みは、父であるなりどんが実は伝説の雷神であったことが発覚することで、おなりの悩みは、一旦は解決したかのような展開となる、しかし、おなりとなりどんの「“ワタシ”と“アナタ”」の物語は、むしろこの「一旦の解決」から始まることになる。

 おなりは、「クシの力」が得られない自分というものと向き合うことを入り口に、「私は何者か」という問いにぶつかってしまう。それはお父さんだったなりどんが、“アナタ”として見えてくるということでもある。

 一方、なりどんはなにも語らないキャラクターなので、おなりと出会った10年前のあの日、彼が何を感じたかを詳らかには語りはしない。しかしあの嵐の夜、なりどんは彼にとっての“アナタ”=他者と初めて出会ったのだ。その出会いが、なりどんを今の彼へと変化させるきっかけとなった。

 そして10年が経ち、おなりも大きくなった。おなりとなりどんは、新しい“ワタシ”と“アナタ”の関係を結び直す必要がある。そのためには知りたくない事実、語りたくなかった事実も語られる必要がある。

 この時、おなりの力となるのがカルビンだ。ミックスルーツのカルビンは来日して、“ワタシ”と“アナタ”のせめぎ合いを経験した少年だ。その中で彼は「妖怪大好きな自分」という輪郭を手に入れたのだった。彼は“ワタシ”と“アナタ”の問題については、おなりのいわば先輩なのである。彼の存在が、“アナタ”と向き合うようにおなりの背中を押してくれる。

 このような“ワタシ”と“アナタ”の物語の延長線上に、「“ONI”とはなにか?」という一番大きな主題が浮かび上がってくるのが、『ONI』という作品なのである。

 “アナタ”のいない“ワタシ(たち)”だけの均質な世界。それは不安もなく、安定的かもしれない。しかし、それは世界の全てではないと知るべき時はかならず来る。その時に生まれる不安や恐怖は、“アナタ”のことをどれだけ考えられるかと深く結びついている。恐怖に飲み込まれた“ワタシ”では、“アナタ”を見据えることも、“ワタシ”の輪郭を捉え直すこともできない。

 世界は“ワタシ”と“アナタ”がぐるぐると絡み合いながらできてる。それはちょうどおなりがもらった太鼓に描かれた「二つ巴」のようなものだ。『ONI』は、おなりとなりどんの喜怒哀楽を通じて、そのことを感じさせてくれる。

Netflixオリジナルアニメーション『ONI ~ 神々山のおなり』作品視聴はこちらから

藤津亮太(ふじつ・りょうた)

アニメ評論家。1968年、静岡県生まれ。新聞記者、週刊誌編集を経て、2000年よりアニメに関する様々な原稿をWEBや雑誌、Blu-rayブックレットなどで執筆している。主な著書に『ぼくらがアニメを見る理由』(フィルムアート社)、『アニメと戦争』(日本評論社)、『増補改訂版 「アニメ評論家」宣言』(ちくま文庫)などがある。SBSラジオ『TOROアニメーション総研』、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』などにも出演する。東京工芸大学芸術学部非常勤講師。

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企画展示 トンコハウス・堤大介の「ONI展」