「みみをすますように 酒井駒子」展に合わせ、絵本作家の酒井駒子さんを担当した編集者を、らびが訪ねてインタビューする「しあわせの編集者」の第7回です。
今回は、イタリア文学者の須賀敦子さん(1929~1998)の短編に酒井さんが絵を寄せた『こうちゃん』(2004年)を取り上げます。担当したのは河出書房新社で長く編集者を務めた木村由美子さんです。象徴的な言葉がちりばめられた須賀さんの小品に木村さんが光をあて、酒井さんの絵の力によって深い静けさをたたえた本になりました。
取材・執筆:らび
こんにちは、らびです。
みなさんはもう『こうちゃん』を読みましたか。まだの人はぜひ手にとってください。
「あなたは こうちゃんに あったことが ありますか。」
こう始まる短編です。25編の短いテキストからなっており、最後の「あなたには みえなくても きこえなくても、きっと こうちゃんは、どこかできいているのです。ちいさく あかるく わらいながら。」を読み終えると、しばらく本のページを閉じることさえできなくなるでしょうね。
作者の須賀敦子さんは、戦前の1929年生まれ。聖心女子大学を卒業して24歳でパリに留学し、その年にイタリアも訪ねています。いったん帰国し、29歳の1958年から13年間をイタリアで過ごします。1960年にジョゼッペ・リッカさんと出会い、翌61年に結婚。夫妻で日本文学のイタリア語訳を進めましたが、リッカさんの急逝で1971年に帰国します。56歳でイタリアでの体験に基づく文筆活動を始め、『ミラノ 霧の風景』(1991年、白水社)や『コルシア書店の仲間たち』(1992年、文藝春秋)、『ヴェネツィアの宿』(1993年、同)、『ユルスナールの靴』(1996年、河出書房新社)などの著作を残し、1998年3月に他界しました。
知られざる短編に光
今回インタビューした木村由美子さんは、河出書房新社で長く海外文学を担当した編集者です。須賀さんとのおつきあいは長く、須賀さんが亡くなってからは池澤夏樹、松山巖、丸谷才一の3氏を編集委員に迎え全8巻・別巻1の『須賀敦子全集』(2000~2001年、河出書房新社)の編集に携わりました。全集に取り組んでいる時から、「こうちゃん」を単行本として出したいという思いを抱き続けてきたといいます。
実は「こうちゃん」は、須賀さんの熱心な読者にかろうじて知られている小品でした。
全集に木村さんが寄せた解題などによりますと、須賀さんは1960年7月に「どんぐりのたわごと」という小冊子の刊行を始めます。須賀さんの手書き原稿が石版刷りで印刷された自費出版で、1662年6月の第15号まで発行されました。ミラノの「コルシア書店」(コルシア・デイ・セルヴィ書店)が発行元になり、部数は200部ほど。主に日本の知人、友人に郵送されました。「こうちゃん」は「どんぐりのたわごと」第7号(1960年12月)に掲載されています。
須賀さんの死後に「どんぐりのたわごと」の第1号から第15号までの全号は『須賀敦子全集 第7巻』(2000年)に収められました。「こうちゃん」も活字にはなったものの、木村さんには心残りもあったようです。
「抽象的な詩のような素晴らしい世界を、ぜひ一冊の本にして世に出したいと思いました。絵があると文章の須賀さんの独特の世界はさらに広がると感じていましたので、描いてくださる人をずっと探していました」
イタリアでひっそり世に出た「こうちゃん」に、40年以上の時を経て木村さんが光を当てたのです。
余白や余韻のある絵
ただし、画家選びには時間がかかりました。
「須賀さんの『こうちゃん』はとても抽象的な文章です。その抽象性と呼応する画家はなかなか見つかりませんでした」
そうして数年が過ぎていきました。没後5年の2003年春を超えても決められないままだったある日、装幀家の水木奏さんから酒井駒子さんの名前を告げられたのです。水木さんは須賀敦子全集のブックデザインを手掛けており、どんな画家が「こうちゃん」の絵にふさわしいのかをずっと相談していました。
「木村さん、ぜひ『金曜日の砂糖ちゃん』(2003年、偕成社)を読んでください。こうちゃんのイメージではないでしょうか」
水木さんに促され絵本を見た木村さんはすぐ「あっ、これだ」と思いました。「駒子さんの文には余韻、絵には余白があります。かかれていないところにも想像を羽ばたかせることができる作家です。駒子さんに絵をお願いできたら、すばらしい本になると確信しました」
「ただし、水木さんがおっしゃるには当時も『酒井さんはお忙しい人で、引き受けてくださるかどうか』。悩んでも仕方ないので、とにかくうかがうことにしました」
酒井さんに連絡をとると「須賀さんの本、好きです」と応じてくれました。
酒井さんは、そのころの記憶をこうたどっています。
「ご依頼があったとき、『こうちゃん』のテキストとともに御本も送っていただきました。
読んでみて、その素晴らしさに感動して『好きです!』と言ったのだと思います。」
単行本の実現に大きく動き始めたのです。
詩を支えにした須賀さん
さて、ここで酒井さんの話題から離れて「こうちゃん」について書いてみます。木村さんへのインタビューと『須賀敦子全集 第7巻』(2000年、河出書房新社)に、小説家で評論家の松山巖さんが寄せた解説などを参考にしました。少し長くなります。酒井さんの絵について早く読みたい人は、おしまい近くの「一人でいること」の段落まで読みとばしてください。
「こうちゃん」がミラノの「コルシア書店」から自費出版の小冊子として1960年12月に刊行されたことは、先ほど紹介した通りです。
「こうちゃん」という名の「ほんの小さな こども」にまつわる25の物語を、語り部である「わたし」が紹介してくれます。時には「わたし」が「こうちゃん」に語りかけることもあります。ひらがなが多いのですが、木村さんが「抽象的で詩的」と話すように子ども向けとは言えません。宗教的な雰囲気も漂っています。
「こうちゃん」が出版された当時の須賀さんは31歳。イタリアで暮らし2年が過ぎていました。夫となるリッカさんと巡り合い、婚約していたころです。希望に満ちた時期でした。一方で「須賀さんは言葉や表現について苦しんでいました」と木村さんは指摘します。
須賀さんの20代は戦後日本の大変動期であり、個人的にも激動の時期でした。戦後すぐにカトリックの洗礼を受け、大学を卒業後にパリ、ローマに留学します。英語、フランス語に加えイタリア語にも出会いました。そしてイタリア語なら自分の言葉にできるのではないかと思ったそうです。
でも学びはじめのころは、1996年の池澤夏樹さんとの対談で語っているように、「イタリア語と日本語が頭の中で渾然となってしまって、ちょうど物が言えない人みたいな時代」もあったようです。まさに30歳前後のころがそうでした。「自分に合う言葉を求め、手探り状態だった須賀さんが心の支えにしていたのが詩でした」と木村さんはみています。詩は本質を表現できると須賀さんは信じていたからです。
「どんぐりのたわごと」第3号(1960年9月)には、この後で話題にするダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の詩を邦訳して紹介しており、当時の須賀さんが詩に関心があったのは間違いありません。
ただし、若き日の須賀さんが詩作に取り組んでいたことは、生前ほとんど知られていませんでした。親しい人のほかには見せていなかったからです。池澤さんとの対談でも須賀さんは、詩と彫刻は固いものを刻んで「本質だけを残すところが似ている」としながらも「言葉が怖くて逃げ回っていました」と敬遠していたかのような口ぶりでした。
でも須賀さんは人知れず詩を描き残していました。
須賀さんの遺品から未発表の詩を見つけたのは木村さんです。ノートや和紙、タイプ用紙に鉛筆などで丁寧に書かれていて、日付から1959年の作とみられています。人知れず書き残されていた詩は没後20年にあたる2018年、木村さんの手によって44篇の詩集『主よ 一羽の鳩のために』(河出書房新社)にまとめられました。
詩集の編集と出版に携わり、木村さんは「こうちゃん」が須賀さんの詩作の延長線上にあると確信したといいます。読み比べてみると確かにそうですね。1959年11月26日の日付がある「ひしひしと夜がおしよせ」の書き出しには「こうちゃん」と相通じるものを感じます。
ひしひしと夜がおしよせ
だれひとりもう私をおもひださないときがくると
わたしは こっそりとつめたい床を出て
灰いろに死にたえた炉のほとりで
はるの日に小川におく梁簀(やなす)をあむのです
「こうちゃん」は、須賀さんが生前にただひとつ公表した詩集だったのかもしれません。
パルチザンの流れ
その「こうちゃん」に、こんな一節があります。
「ただ こうちゃんは ある夏のあさ、しっとりと 露にぬれた草のうえを、ふとい鉄のくさりをひきずって 西から東へ あるいて 行くのです。鉄のくさりのおもみで こうちゃんのうしろには、たおれた草が 一直線に つづいてゆきます。どこまでも、どこまでも。」
受難や抑圧、そして抵抗と不服従を想像させるイメージが、どうして小さく、無垢な子どもであるこうちゃんに重ねられているのでしょう。
全集の編集委員だった松山さんは『須賀敦子全集 第7巻』に寄せた解説「パルチザンの水脈の人々と共に」のなかで、解説戦中のファシスト政権へのパルチザン(市民らによる抵抗運動)の流れからひもといてみせました。松山さんはこう書いています。
「須賀敦子は『コルシア書店の仲間たち』のなかで、コルシア・デイ・セルヴィの活動をはじめたダヴィデ・マリア・トゥロルド神父とカミッロ・デ・ピアツ神父、デジデリオ・ガッティが戦時中、パルチザンに参加していたと、繰り返し語っている」
ここで第二次世界大戦末期のイタリア史を駆け足でふりかえりましょう。
日独伊の同盟関係にあったイタリアは1943年に戦況が不利になると、英米などの連合国側と休戦協定を結びました
。すると、間隙を縫うように同盟国のドイツ軍がミラノを含む北部・中部イタリアに進撃し、軍事力を背景にイタリアのファシスト政権を復活させたのです。反対する市民らがパルチザンを組織し、地下印刷所で反ファシズムを訴える出版を続け、祖国解放に向けた活動を繰り広げました。そうしたパルチザンのリーダー格が戦後に立ち上げたのが「コルシア書店」だったのです。
主に同時代のフランスの神学、哲学関係の論文を翻訳出版しており「活動家や学生や左派のインテリがたむろしている書店」だったと、須賀さんは『コルシア書店の仲間たち』で回想しています。そして、その雰囲気を須賀さんが好ましく思っていたことは間違いありません。
自らの小冊子を「どんぐりのたわごと」と名付けたことからも明らかです。
笑っているどんぐり
「どんぐりのたわごと」第1号(1960年7月)の「はじめに」には、旧友にあてた手紙という文体を借りて風変わりな冊子名になったいきさつが書かれています。
学生時代を過ぎても学び、考えることを続けたいという須賀さんの決意がまず述べられます。とはいえ「いくら私達が一生懸命になったところで、えらい人たちからみればどんぐりの背くらべ、大したことできないのはわかってる」と省みます。その上でこう提案するのです。
「だけど大したことができないってだまっていたのでは、背くらべにもなりやしない。(中略)だからせめて私達だけでもねむってしまわないように時々あつまって、どんぐりのたわごと会しましょうよ」
たとえ「どんぐり」であろうと黙ってはいられない。「たわごと」でも語り続けよう。異国でそのように決意した理由を、須賀さんはこう書いています。
「イタリアにもどんぐりがあつまっていることを発見したのです。あつまってどんぐりなりにできる仕事を、小さく、けれど美しく、心をこめてしているのをみつけたのです」
イタリアのどんぐりというのは「コルシア書店」の人たちのことです。そのなかには、須賀さんが繰り返し語っていたようにパルチザンとして戦ったダヴィデ神父やカミッロ神父らのカトリック聖職者もいました。彼らは戦後のフランスで興り始めていた「あたらしい神学」に共鳴し、保守派との間に緊張関係がありました。
「あたらしい神学」とは唯物論や無宗教に根差す共産主義に接近して生まれた神学で「カトリック左派」と呼ばれることもあったようです。その主要論文をイタリア語に翻訳し、文学や哲学の著作も刊行していたのが「コルシア書店」でした。ですから須賀さんが回想したように「活動家や学生や左派のインテリがたむろしている書店」となったのです。
なぜダヴィデ神父らは「あたらしい神学」に熱心な聖職者となったのでしょうか。
松山さんの解説によりますと、彼らは戦時中のパルチザン活動で自由獲得のための戦いをリードしました。ですから戦後に「人間の自由な思考を束縛し、ただただ制度として安定を画ろうとしたカトリック教会に疑問を抱いたのは当然」というわけです。
自らもカトリックの洗礼を受けていた須賀さんが、そうした信仰と現代社会の問題との間で揺れていたことをうかがわせる記述が「こうちゃん」にあります。
「こうちゃんとあの哲学者というかんけいが どうしても腑におちぬようなきもちだったからです。存在、議論、意見、賛成、どれひとつをとってみても、およそこうちゃんとは えんのないことばのようにおもえたからです。」
ただし、須賀さんが「コルシア書店」の人たちを好ましく感じていたのは間違いありません。「小さく、けれど美しく、心をこめてしている」仕事だとほめた上で、「どんぐりのたわごと」第1号の「はじめに」をこう締めくくっているからです。
「つやつやと光っていて、いつもわらっているようなどんぐり。しかもまた何と小さくて威厳のないことか。でも私達は、どんぐりでなければもつことのできない、しずかな、しかもいきいきとした明るさを、よろこびを、みんなのところにもって行けるのではないでしょうか」
木村さんは「こうちゃん」をこう読み解いてくれました。
「須賀さんの、内なる自分との対話なのかもしれません。自分を見つめ、神と詩と言葉について語っているような」
「こうちゃん」はなぜ、あれほどつややかで、いきいきとして、つよく、そして信仰の香りがするのでしょう。木村さんへのインタビューで少しだけわかった気がします。
一人でいること
急いで酒井さんの絵に戻らなくてはなりません。
酒井さんから原画を受け取り木村さんが感じたのは「詩の心」でした。
「どこを読んでも抽象的で詩的な『こうちゃん』の世界が、駒子さんの詩の心で表現されている、須賀さんの詩の心と共鳴しているなと感じました。駒子さんの絵も根元には詩があると思います。詩の心があって、そこから酒井さんの絵が育ってきているように思えるのです」
単行本の『こうちゃん』には、酒井さんには珍しく抽象画のように感じられる絵があります。たとえば12ページや23ページを見てください。
「抽象画でも具象画でもないですよね。もちろん単なる挿絵でもありません。須賀さんの文章にイメージを呼び起こされて描いてくださったのでしょう。本当によくお描きくださったという思いでした」
木村さんはここで、須賀さんが未発表の詩を書きつけていたノートの冒頭に残したメモ書きを読み上げてくれました。
一人でゐるといふこと。それは なにがどうなっても必要。
どんなに近くても、どんなにわかりあってゐても、
一人でないと、死んでしまふといふこと。
自分を失ふな。
続けて、酒井さんの絵から感じる孤独について木村さんはこう話したのです。
「私は駒子さんの絵本を読んで、この方は内側に孤独を秘めていると思いました。寂しいというのとは違います。須賀さんが書いている『一人でゐるといふこと』です。そして決して自分を失わない視点。思わず涙がこぼれてしまうような画でも、最終的にはなぜかあたたかな思いに満たされるのは、そのためかもしれません」
木村さんが「こうちゃん」を大切に思い、絵を描いてくれる画家を何年もかけて選び抜いていたことは先に書いた通りです。
「ですから、本当に酒井さんでよかった。抽象的で哲学的な世界観を理解できる方ですから。原画をいただき『あっ、これで本にできる』と思い、ほっとしました」
木村さんはその後も酒井さんに絵をお願いしたことがあります。ドイツの作家アクセル・ブラウンズさん著『ノック人とツルの森』(2008年、河出書房新社)がそれです。
静かで美しい本
酒井さんは『こうちゃん』でも、本全体の構成を考え、どういうページ割にするのか、どこに絵を置くのか、どの絵を見開きにして見せるのか、さらにはどこで絵に文字を重ねて載せるのかなどについて指定していました。
「ただし、装幀の水木さんを交えて相談して変更したこともあります」と木村さん。
それは表紙の絵です。子羊を抱いた子どもの絵が使われていますね。でも酒井さんは別の絵を表紙に考えていました。子羊だけが描かれた絵です。その絵は扉のページに載せられています。
「どちらもいい絵です。子羊を抱いた子どもの方がよりすてきだと思えました。ですので、そちらをカバーに使わせていただきました」
『こうちゃん』という本は、木村さんという編集者がいなければこの世には生まれてきませんでした。現実には須賀さんと酒井さんは顔をあわせ、言葉を交わしたことはありませんから。交わるはずのないふたりだったのです。
「会えばふたりはきっと意気投合したと思います。詩の心で響きあっていますから」
響きあうふたりの声にみみをすませるように、木村さんは静かで美しい本をつくりました。
そして私たちにたくさんのしあわせを届けてくれたのです。
らび
自ら「らび」と名乗っている初老のおじさんです。うさぎが好きで「ぼくは、うさぎの仲間」と勘違いしているからです。ディック・ブルーナさんを尊敬しています。著書に『ディック・ブルーナ ミッフィーと歩いた60年』 (文春文庫) 。