人間らしい動物たちのリアリティ――「どうぶつかいぎ(展)」を見る(読む)ための三つのポイント

寄稿:西尾宇広(慶應義塾大学准教授)

企画展示「どうぶつかいぎ展」は、エーリヒ・ケストナーの絵本『動物会議』(1949年、岩波書店)をテーマにしています。作者のケストナー、また当時の時代背景について知ると、「どうぶつかいぎ(展)」を見る(読む)ためのヒントになるかもしれません。近代ドイツ文学を専門とする、慶應義塾大学准教授の西尾宇広さんに教えてもらいました。

人間らしい動物たちのリアリティ
――「どうぶつかいぎ(展)」を見る(読む)ための三つのポイント

寄稿:西尾宇広

 『エーミールと探偵たち』、『飛ぶ教室』あるいは『ふたりのロッテ』といったタイトルをご存じでしょうか?
 
 作者のエーリヒ・ケストナーは、20世紀のドイツを代表する文学者のひとりです。日本ではおもに児童文学の作家として知られていますが、大人向けにもたくさんの作品を書きました。



 もともとジャーナリストとして出発し、やがて鋭い社会風刺の詩人として注目されるようになったケストナーは、子どもに向けて書くときもけっして手を抜きません。「児童文学」が大人向けの「純文学」よりも一段劣るジャンルとみなされていた時代にあって、彼はその風潮につよく反発します。子どもが小さいからといって「片ひざを曲げて書く」のはよくない、まずは子どもを等身大の人間として認めたうえで、子どもには子どもの苦しみや葛藤があることをはっきり書くべきだ、というのが彼の考えでした。

 今回の「どうぶつかいぎ展」の題材となっている『動物会議』は、第二次世界大戦の終結からまもない1949年に、ケストナーの戦後初となる児童文学として発表された作品です。平和のための会議をくりかえすばかりでいっこうに話のまとまらない人間たちに対し、しびれを切らした動物たちが、世界中から集結してみずから会議をひらき、子どもたちの未来のために「永遠平和条約」の調印をせまる、というストーリーには、ケストナー自身の二度にわたる戦争経験がつよく反映されています。

『動物会議』/エーリヒ・ケストナー著、ヴァルター・トリアー絵/池田香代子訳/岩波書店刊



 作品のもととなるアイディアを出したのは、イェラ・レプマンという女性でした。ナチス政権下のドイツからロンドンに亡命した彼女は、戦後まもないドイツに戻ると、国際的な児童図書の展示会を開催したり、ミュンヒェンに国際児童図書館を設立したりする活動に尽力します。そんな彼女に背中を押されて、ケストナーがこの作品に着手した1947年は、アメリカとソ連のあいだで政治的な緊張が高まり、国際会議が再三にわたって行き詰まりを見せていた時期でもありました。
 さらに、本が出版される49年になると、ドイツはまさに「冷戦」の最前線となり、国そのものが東西に分断されてしまいます。物語のなかで、ただひたすらに党派的な分裂をつづけるだけの人間たちを、動物たちが痛烈に批判している背景には、そのような時代状況があったのです。

 さて、『動物会議』という作品について、なんとなくイメージをつかんでいただけたでしょうか。
 ここからは「どうぶつかいぎ(展)」を楽しんでいただくためのポイントを、私なりにいくつかご紹介したいと思います。ケストナーはこういうとき、話の要点を三つにしぼって説明するのが好きでした。せっかくなのでそれにならって、私も三つのポイントを書いてみることにします。

(1)動物と人間について

 物語のなかの動物たちは、じつに「人間らしい」姿で描かれます。新聞を読み、電話をかけ、身だしなみを整えて、ときにわがままを言いながら、自分たちが批判する人間たちと同じ「会議」という手段によって、平和のための決定を下すのです。ケストナーは、戦争のような大きな過ちを二度とくりかえさないために、人類の「教育」と「理性」を何よりも重視していました。たしかに人間も動物の一部にすぎない、けれども人間は「考える動物」なのだ、というわけです。では、はたしてこの作品のなかでちゃんと「考える」ことができているのは、人間と動物のどちらでしょうか。答えはもうおわかりだと思います。

 ここでの動物たちの要求は、もしかしたらあまり現実味のないものに響くかもしれません。それは彼女/彼らが人間の世界を知らないからこそ、つまり、動物たちが人間でないからこそ、提案できる理想論なのかもしれません。でも、もしもここでの動物たちが、同時に「考える動物」でもあるとしたら(じっさい彼女/彼らは、人間たちを説得するためにみんなで知恵をしぼります)、ケストナーはこの動物たちのなかにこそ、人間のほんらいあるべき姿を見出していたのかもしれません。そう考えると、戦争をやめられない人間たちを批判して平和の要求をつきつけているのは、じつはたんなる動物ではなく、むしろ同じ人間であるような気もしてきます。だとすれば、一見したところ理想主義的に映るこの動物たちの提案が持つ「リアリティ」を、私たちは簡単に無視することもできないでしょう。

(2)ユーモアと笑いについて


 この物語の動物たちは、よく笑います。また、いたるところにユーモラスな表現がちりばめられているので、私たち自身もお話を読みながら、何度もくすりと(またはニヤリと)させられます。人間とはたんに「考える動物」なのではありません。ギリシアの哲学者アリストテレスにならって、ケストナーは人間を「笑う動物」とも定義しました。(この点においても、物語の動物たちはじつに「人間らしい」存在といえそうです。)

 風刺家を自任するケストナーにとって、ユーモアと笑いはとても大切なものでした。そもそも私たちは何を笑うのでしょうか。人は「対照(コントラスト)」を笑うのだ、というのがケストナーの答えです。ほんらいそうあるべきものがそうなっていないとき、またはその逆の場合、私たちはその「ずれ」におかしみを感じるのです。たとえば、動物たちが人間のようにふるまうことがひとつのユーモアになる、というのも同じ理屈でしょう。もちろんそのようなユーモアは、現実のある側面を「誇張」し、さらにそれを「単純化」した表現なので、それがそのまま現実というわけではありません。ですが、そのようなユーモアは、私たちにひとつの新しい視点、現実を見るための新しい「距離感」を教えてくれます。そうやって、いわば一歩引いた視点から物事を眺められるからこそ、私たちは現実を笑うことができるのです。

 物語を読みながら、展示を見ながら、くすっと笑えるポイントを見つけたら、自分はそのとき何におかしみを感じているのか、どのような「距離感」で現実を眺めているのか、ぜひ考えてみてください。そしてできれば、そんなふうに感じている自分自身を笑うことのできる視点はどこにあるのか、ということについても、考えてみてほしいと思います。ケストナーいわく、まじめさにとらわれて「自分を笑うことのできない人、あるいはそれを学ばない人」は、それと気づかず苦しい状況に陥ってしまうものだからです。

(3)戦争と環境問題について

 この作品の第一のテーマは、なんといっても戦争でしょう。現代の日本にいる私たちにとって、戦争は遠い世界の出来事でしょうか。けっしてそんなことはありません。たとえばいまの日本には、母国を追われてどうにかここまでたどり着いたにもかかわらず、「難民」としては認められず、いわゆる「入管」施設に延々と収容されながら、まさしく「非人間的」な扱いを受けている方がたくさんいます。動物たちの要求を真摯に受け止めるなら、私たちはまずもってそのような人たちに――紛争や政情不安のために故郷に帰れず、かといって日本への入国すらできないでいる大勢の人々の現実に――目を向けなくてはならないはずです。

 さらにこの作品には、現代の私たちだからこそ読み取ることのできる、新しい意味もあるように思います。たとえばシロクマのパウルを先頭に、北極からの参加者たちが会議に向かう途中、みんなが乗る氷山が海のまんなかで溶けてしまい、一行が途方に暮れる場面があります。このとき氷が溶けた原因は、たんにメキシコからの暖流による影響にすぎません。ですが、おそらくいまの私たちがこの場面を見てまっさきに思い浮かべるのは、地球温暖化の深刻な現実でしょう。未来の世代である子どもたちのために、現在の大人たちに責任ある行動を求める動物たちの主張は、現代においては、人間どうしの戦争だけでなく、人間が引き起こしている環境問題にもそのままあてはまります。作中の電報で伝えられている通り、「これ以上遅くなってはもう手遅れ」なのです。

 物語では、会議に集まる動物たちの様子が、有名な「ノアの箱舟」のエピソードにたとえられます。聖書において、神は世界を襲う大洪水をまえに、すべての動物を一組ずつ箱舟へと避難させました。動物会議が開催される「動物ビル」がひとつの「ノアの箱舟」だとしたら、それは新たな「大洪水」が――戦争または気候危機というかたちをとって――私たちの目前にせまっていることへの警告なのかもしれません。


 『動物会議』の冒頭には、「子どもと識者のための本」という献辞が書かれています。ジャンルとしては「児童文学」に分類されるこの本の想定読者は、けっして「子ども」だけではないのです。ケストナーは児童文学の書き手に求められる資質として、「子どものことをよく知っていること」ではなく、「自分が子どもだったころのことをよく覚えていること」を挙げました。同じことは、児童文学の読み手にもあてはまるでしょう。
 まだ「子ども」である人も、もう「子ども」ではない人も、「子ども」としての、「子ども」だったころの、自分の感覚を呼び起こしながら、この「どうぶつかいぎ(展)」を楽しんでいただければ幸いです。

西尾 宇広(にしお たかひろ)

1985年、愛知県生まれ。慶應義塾大学准教授。専門は近代ドイツ文学。卒業論文でケストナーに取り組んで以降、「公共圏」というキーワードのもと、文学が社会のなかで果たす役割について歴史的な視野で考えています。おもな仕事として、『ハインリッヒ・フォン・クライスト――「政治的なるもの」をめぐる文学』(共著、インスクリプト、2020年)など。