エルマーを日本に紹介した人

渡辺茂男
渡辺茂男

『エルマーのぼうけん』を日本に伝えたのは、子どもの本の作家で翻訳家の渡辺茂男です。子どもたちに読書のおもしろさを伝えたいという情熱と、推敲を重ねた訳によって、『エルマーのぼうけん』はアメリカでの出版から15年後の1963年、福音館書店から刊行されました。

1952年、慶應義塾大学文学部の図書館学科4年生だった渡辺は、アメリカの子どもの本を読み進めていました。その中で出会った一冊が『エルマーのぼうけん』でした。

本を開いて、「あれあれ?」と思いました。まず、主人公である、「ぼくのとうさん」が、エルマー・エレベーターという愉快な名前です。

囚われのりゅうの子どもの救出という、簡潔で劇的な冒険の動機は、読者を一気に空想の世界にいざないます。そして、待ちに待った遠足の支度のような、持ち物の楽しいディテール描写。

アンリ・ルソーの絵を思わせるような、幻想的なイラストの魅力は、これまで読んだ幼年文学では、とても感じられないものでした。

物語は、期待通り奇想天外、それでいて、なんの矛盾も感じられない、迫力にみちた楽しいものでした。そこには、いわゆる道徳の押し付けもなければ、陳腐なお説教の安売りもありません。ためになるとか、役に立つとかいう功利的な目的は、この『エルマー』には何もはいっていないのです。そのかわりに、おおらかな空想と、楽しい冒険、愉快なできごとが、たっぷりともりこまれています。しかも、残酷だとか、軽薄だとかという心配は、まったくありません。私は、これから少年期にかかろうとする子どもたちにとって、本を読むことのたのしさを与えてくれるのは、こういう本なのだと、強く強く感じました。

渡辺はその後、アメリカのウェスタン・リザーヴ大学大学院で子どもの本と図書館について学び、ニューヨーク公共図書館に勤務し、子どもたちと本を結びつける仕事につきました。その期間、どこの図書館にいっても、「エルマー」は子どもたちに引っ張りだこで、ボロボロになっていました。やがて帰国の段になり、日本へのお土産に「エルマー」を持ち帰ります。そして「エルマー」を大学の授業で紹介したり家庭で楽しんだりするなかで、日本語版の翻訳を決意しました。

ところがいざ翻訳にとりかかると、それが容易でないことに気付きます。りゅうの子、ライオン、ゴリラ、ワニの話し方を日本語にすることが非常に難しい。外国語で書かれた空想物語は、擬人化された登場人物の性別や年齢、関係性がわからず、経験と勘に頼って翻訳に挑む必要がありました。渡辺は、英語で子どもたちに読み聞かせしたこと、ストーリーテリングの勉強や実演の経験、自身が小学生の頃国語の教科書を朗読していたことを手がかりにします。

物語を読むと動物たちの音声が聞こえました。アメリカの図書館で仲良くなった子どもたちの顔が目に浮かびました。くりかえしくりかえし読むうちにりゅうの子どもは、気のやさしい四、五歳の男の子のイメージがだぶりはじめ、声が聞こえてきました。それから先は、まるで自分が物語を書き下ろしているような感じで翻訳は進みました。題名は、『エルマーのぼうけん』と訳しました。

翻訳臭い日本語にしないように、原文の英語が頭から消えるまで翻訳原稿を寝かせ、繰り返し音読して文章を推敲しました。翻訳で原作のたのしさが損なわれないか。渡辺の心配をよそに子どもたちから圧倒的な支持を受け、続編『エルマーとりゅう』『エルマーと16ぴきのりゅう』の翻訳が続きました。

渡辺がアメリカで出会い日本に持ち帰った「エルマー」は、渡辺の情熱と努力によって、日本語で原文の魅力をそのままに伝える物語となり、今日も多くの人たちに愛されています。

『心に緑の種をまく——絵本のたのしみ』(岩波現代文庫 2016年、232-235頁)より

ミシガン滞在中、二人の息子と(1971年)

渡辺茂男

1928年、静岡市生まれ。実家は写真館で十二人兄弟姉妹の三男。慶應義塾大学文学部図書館学科卒業。米国留学、ニューヨーク公共図書館児童室勤務、慶應義塾大学教授を経て、児童書の翻訳と創作に専念。創作に『しょうぼうじどうしゃ じぷた』(山本忠敬 絵/福音館書店)、『もりのへなそうる』(山脇百合子 絵/福音館書店)、「くまたくん」シリーズ(大友康夫 絵/あかね書房)など。翻訳書に「エルマーのぼうけん」シリーズ(R. S. ガネット 作/R. C. ガネット 絵/福音館書店)、『かもさん おとおり』(ロバート・マックロスキー 文・絵/福音館書店)、『どろんこハリー』(ジーン・ジオン 文/マーガレット・ブロイ・グレアム 絵/福音館書店)など多数。エッセイ集『心に緑の種をまく―絵本のたのしみ』(岩波現代文庫)、自伝『わが青春』(児童図書館研究会)などの著書もある。ユネスコ、IBBY国際児童図書評議会など、子どもの本を介した国際交流にも尽力した。2006年没。